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月の旅人

月の旅人

河畔の港町セビリア

河畔の港町セビリア




朝も用意を済ませてから夜に食べ切れなかったフルーツを食べ、それから朝食へ向かう。
やっぱりメロンはなかった。←しつこい(笑)
それでもパンにベーコンにスクランブルエッグ、ヨーグルトに缶詰の桃などそれなりにおいしく朝食を終え、8時にはホテル前の歩道に出てバスが来るのを待った。
実はJさんだけ、当初泊まる予定だったホテル・イスラ・カルトゥーハに宿泊だったのだ。なんで自分だけ違うホテルなんだ、おかしいじゃないかと会社に散々抗議したらしいが、どうあっても聞き入れてもらえなかったらしい。(^-^;)お気の毒に
日本では見かけないタイプの荷台そのJさんがなかなか現れない。見える限り道は混んでいるようでもないため、それ以外の理由としか思えなかった。……寝坊だな。←決めつける(笑)
日本では見かけない横開きの荷台があるトラックなど適当に写真を撮って暇を潰し、30分近くが経過してようやくバスがやってきた。おばさんが前に出て怒ったしぐさをすると、Jさんは運転席で両手を上げておどけてみせた。やっぱり愛嬌たっぷりである。みんな本当に怒るでもなく笑いながらバスに近寄ると、降りてきたJさんがお気に入りの小さなおばさんの前に跪(ひざまず)き、手にキスをして許しを請うようなしぐさをする。
いつも真っ赤なほっぺをしていることもあって、まるで何かのアニメのキャラクターみたい、何度かみきちゃんが言っていた。ほんとに、こんなにかわいいおじさんにはそうそう出会えるものじゃない。
Sさんには悪いけど、ドライバーさんがJさんに代わって良かった、とこの先何度も思った。(; ̄▽ ̄)ゞ


セビリアはアンダルシアの州都で、アンダルシア一大きな都市である。歴史の登場する以前から村落のあったセビリアはスペインで唯一の内陸港が開かれたローマのカエサルの時代から現在まで、イベリア半島の最も重要な港の1つとして栄えてきた。
ちなみにローマ帝国初の地方出身の皇帝となったトラヤヌス帝や、その後を継いだ甥のハドリアヌス帝はセビリア近郊の町イタリカの出身だそうだ。лヾ( ̄- ̄*)へぇ~
北から南へと縦断し大西洋へとつながるグアダルキビール川河畔の肥沃な平野に広がるセビリアはイスラム王国時代に通商で繁栄し、大航海時代にはこの川から運ばれてきた新大陸の品々の唯一の貿易港として栄え、その富がカスティーリャ王国を大いに潤した。
セビリアの起源はタルテシアン人によって築かれたヒスパリスという都市で、その後紀元前207年にローマ人によってイタリアの語源ともなったイタリカと名称を変えて建設され、それ以降7世紀の間ローマ帝国の西地中海地方の支配の中心地となった。そして5世紀初頭には西ゴート族が王国の都としたが、彼らがトレドへ都を移した頃にアフリカからモーロ人がシベリア半島に侵入し、瞬く間にセビリアはモーロ人に占領されてイシュビリアと呼ばれるようになり、それが現在のセビリアの語源となっている。
が、このセビリアという呼び方は現地の人が発音すると“セビージャ”に聞こえ、ガイドブックなどにも“セビーヤ”や“セビーリャ”など様々な記述がされている。でも個人的にセビリアという響きがいちばん好きだから、セビリアで通すことにしよう。(笑)
「セビリアを見ずしてマラビーヤ(驚く)と言うなかれ」と自慢する言葉がある。“セビリアを見ずに最高だと言うな”という意味だ。これは生まれるべくして生まれた言葉なのだろう。なぜなら、世界で最も美しい都市の1つといわれているセビリアは17世紀に入って芸術が大きく開花し、絵画の巨匠ムリーリョや世界3大名画『宮廷の侍女たち』のベラスケスを生み、ビゼーの『カルメン』やモーツァルトの『ドン・ファン』、『フィガロの結婚』、ロッシーニの『セビリアの理髪師』などの世界的に有名なイタリア・オペラの舞台としても知られている。さらに、新大陸を発見したコロンブスが凱旋帰国した地でもあるのだ。そして世界3大聖堂の1つに数えられるカテドラルもあり、ムデハル様式やルネッサンス様式の影響を今に伝える陶芸品や刺繍織物も盛んである。そんなこんなで、自慢したくなるのも頷けるというわけ。
1929年に開催されたイベロ・アメリカ博覧会がさらなる都市開発の契機となり、1992年にはコロンブスのアメリカ大陸発見500周年を記念した万国博覧会が開催され、観光客はもちろん商用で訪れる人も多く、各国際機関から『会議の町』と指定されるほどになった。
マドリードとの間を結ぶ新幹線AVEが開通したのもこの頃のこと。なんと17世紀には日本の一行も訪れたことがあるらしい。それからかどうかわからないが、この地にはハポン(Japon)という姓を持った人たちがいるそうだ。( ̄o ̄*)あっ、なんか聞いたことある!


橋ホテルを出発してまもなく、変わった形の橋が見えてきた。こういった橋も万博開催に合わせて作られたものだそうだ。
それから『マエストランサ闘牛場』を左に見てすぐ、目的地に着いたらしくバスが停まった。その場所は『黄金の塔』の前。かつては塔の上部が金色に覆われていたといい、12角形の各面は12方位を指しているという。1220年3月8日に完成したモーロ人による軍事用の塔だった。当時は対岸にも塔があり、太い鉄の鎖を渡して夜間に敵の船が奇襲をかけられないようにしていた。昼間はその鎖を川底に沈めて船を航行させていたという。あの有名なマゼランの世界一周の航海は、なんとここから始まったそうだ。現在は船舶博物館として使用されている。
ジャカランダそんな歴史的な黄金の塔なのに、なんと1枚も写真に収めていない。その横に咲き誇っていたジャカランダという紫色の綺麗な花の撮影に励んでいたのだ。光の加減でなかなかうまく色が出ず、何度も挑戦していたのが災いした。
結局みきちゃんが撮った1枚だけがなんとかそれらしい色に写り、黄金の塔の前で合流した現地ガイドの長身の男前と目の前の横断歩道を渡ってその場を後にしたのだった……。
紫雲木という別名を持つこのジャカランダはイベリア半島や中南米などで街路樹としてよく見られる花で、日本でいう桜のような捉え方をされている。現にハワイでは日系人がハワイ桜とか紫桜と呼んでいるらしい。だが桜とは違い、数週間も花を咲かせてくれるとか。でも日本で花をつけさせるのは気候的にかなり困難で、稀に鹿児島などで咲いたりするそうだ。


風情のある町中を歩き抜け『トリウンフォ広場(勝利の広場)』に出ると、その向こうに世界3大聖堂の1つである壮麗な『カテドラル(セビリア大聖堂)』がそびえていた。
ちなみに最大の聖堂は言わずと知れたバチカンのサン・ピエトロ大聖堂、そして第2の規模を誇るのがロンドンのセント・ポール大聖堂である。
セビリア大聖堂は1401年に教会参事会が「後世の人々が正気の沙汰ではないと思うような巨大な聖堂を建てよう」と計画してイスラム寺院の跡地に建造が始まり、100年以上の歳月を費やして1519年に完成。幅116m、奥行76m、高さ56mの後期ゴシック様式のこのカテドラルは、長い間世界で最も大きなキリスト教建築として名を馳せていた。最初はメスキータのように12世紀に建てられたイスラム寺院を教会として使っていたが、建物が老朽化したため大聖堂へと改築されたとか。
カテドラル(セビリア大聖堂)5つの身廊を持ち、大きな翼廊には製作に80年を費やしたという全面にキリストと聖母マリアの生涯の45場面が刻まれた高さ20m、幅13mの世界最大の金色の木製祭壇衝立を有し、精霊の降臨を表すステンドグラスが輝く『中央礼拝堂』、祭壇にセビリアの守護聖母が祭られイスラム支配からセビリアを奪還した英雄フェルナンド王やその息子で賢王といわれたアルフォンソ10世、スペイン中世期の王たちの遺体が安置されている『王室礼拝堂』、7000本ものパイプを持つ18世紀バロック様式のパイプオルガンがある『聖職者席』、16世紀ルネッサンス様式の卵形をした『参議会室』など、内部はまるで絵画や彫刻の美術館のような絢爛豪華さで、セビリアを訪れたなら必見の場所。
さらに『コロンブスの柩』もある。遺体はもともとセビリアの修道院にあったが、新大陸に埋葬してほしいというコロンブスの希望に従ってスペインの属領だったサントドミンゴ(ドミニカ共和国)に送られ、1795年にはサントドミニカがフランス領になってしまったためキューバへと送られ、さらに100年後の1898年にセビリアに戻されてカテドラル内の柩に安置されることとなった。その柩はコロンブスが活躍した頃の4つの国カスティーリャ、アラゴン、レオン、ナバラの王たちの像によって担がれている。一見して、コロンブスの新大陸発見がもたらした影響の大きさを物語る埋葬のされ方である。中央礼拝堂の祭壇には、なんと2.5トンもの金が使われているという。それだけでも新大陸発見後の富の凄さがうかがえるというものだ。
が、実は柩に安置されているのがコロンブス本人なのかどうかを論争されている。1877年にサントドミンゴ大聖堂で箱にコロンブスの名が記された遺骨が見つかったのだ。それ以来ドミニカ共和国は「スペイン側が掘り出したのは別人の遺骨でこちらが本物」と言って譲らず、スペインも「こちらこそ本物」と言って譲らない。そこでとうとう2003年6月、論争に決着をつけるためのDNA鑑定がグラナダ大学で行われることになった。数ヵ月後には結果がわかるといわれていたのだが、まだ情報はないらしい……。( ̄- ̄;)
もしまったくの別人だったら……埋葬されていた人はこっ恥ずかしい思いをしていたんだろうか。( ̄▽ ̄;) 柩を担いでいた4国の王たちも複雑だよねぇ……。結果が知りたい。( ̄m ̄*)うずうず


アルカサルのライオンの門あれこれと説明を聞いていた場所は、『アルカサル』の入口『ライオンの門』の真ん前。アルカサルはスペイン語で“王宮”を意味する。このアルカサルはスペインで2番目に古い王宮だそうだ。
9世紀にアブデラマン2世がグアダルキビール川の治水を目的に要塞として建造したのが最初で、11~12世紀に拡張が行われ、13世紀にはカスティーリャ国王フェルナンド3世がそのままのイスラム様式の王宮の城主となったが、その後の王たちによってゴシック様式やルネッサンス様式に次々と改修されてしまった。14世紀に入った1364年、そんなアルカサルを残酷王と呼ばれたペドロ1世が大改築してアルハンブラ宮殿を彷彿とさせる王宮が完成した。
そう、現存しているアルカサルのほとんどはキリスト教徒の王によって造られたものなのだ。ペドロ1世は「ターバンを巻かないアラブ王」とも呼ばれるほど、イスラムの芸術と文化を好んだ王だった。そんなペドロ1世がセビリアだけでなくトレドからもイスラム職人を呼び、さらにアルハンブラ宮殿のライオンの中庭を造園したイスラム建築家まで呼び寄せて増築させたアルカサルは、その素晴らしい完成度の高さゆえにそれ以後大幅に改装されることもなく現在にその壮麗さを伝えている。


私たちはきっとガイドさんが言ったであろう「アルカサル」という言葉をすっかり聞き洩らし、ライオンの門にはさほど興味を抱かずカテドラルをより綺麗に撮ろうと頑張っていた。つまりアルカサルはもっと別の場所にあると思っていたのだ。もっとしっかり予習しておけばよかった……。
そんなわけでみきちゃんはとりあえず2枚を写し、Nさんもとりあえず1枚写したが、私はなんと1枚たりとも写さなかった。いくらカテドラルが綺麗だからって、もう少し壁や門に興味を持ってもよかったのにねぇ。←知らなかったなら無理があるけど(-_-;)
カテドラルがうまく撮れたことに満足した頃、移動することになった。トリウンフォ広場をアルカサルの壁に沿って右へ曲がり、広場の端でまた立ち止まってカテドラルの鐘楼である『ヒラルダの塔』についての説明を受ける。
ヒラルダの塔『ヒラルダの塔』はイスラム寺院だった頃の12世紀末(1198年)に完成したミナレットだった。セビリアのシンボルであるこの塔はイタリカのローマ遺跡から運ばれた石で土台が造られ、その上にレンガを使って造られていた。約400年の間にキリスト教徒によって上部に装飾が付け足されたが、アラベスク模様の壁面や基本の形はすべてそのまま残されている。70mだったミナレットは1400年に頂きの部分だけを変えて十字架が掲げられ、1568年にも上部だけを改築して装飾され高さが28m伸ばされたのだ。頂きには十字架に変わってブロンズの女性像が乗せられ、これが風を受けて回転する様子から“風見”という意味のヒラルディヨと呼ばれるようになり、それからヒラルダの塔という名で定着した。
内部は階段ではなく展望台まで馬がようやくすれ違えるほどの狭い傾斜路(スロープ)になっていて、四隅で直角に折れ曲がっては上部へと続き、35の傾斜路から構成されている。それは、イスラム教時代に祈りの時刻の鐘を鳴らす役割の者が馬で塔に登るためだったらしい。塔にある大小24個の鐘は1764年からずっと街に時を告げ続けており、スペイン最古の時計と言っても過言ではないそうだ。塔に登ればセビリアの街を360度見渡せる絶景が広がる。

司教館ヒラルダの塔の説明が終わってからさらにその塔に近づき、セビリアの守護聖母の名がつけられている『ビルヘン・デ・ロス・レイェス広場』で立ち止まった。この広場の中央には街灯の役目も果たしている噴水があり、ヒラルダの塔がまさに広場から伸びている感じでそびえている。そしてセビリア・バロック建築の特色である深い赤とベージュ色の壁を持つ18世紀建造の司教館が、広場をまるで庭のようにして堂々と建っていた。
そして再びトリウンフォ広場のほうへ戻り、第2の説明地点だった場所からアルカサルの城壁に沿ってするりと『サンタ・クルス街』散策へ向かった。


実は最初の説明地点であるライオンの門の前からカテドラルを見ているとき、その左側には『インディアス古文書館』があったのだ。まったく知らなかったため、カテドラルの写真の左隅にチラッ……と写っているものしかない。
インディアス古文書館は神聖ローマ帝国皇帝カルロス5世の息子フェリペ2世の時代である1583年に着工され、1784年にスペイン王カルロス3世の命によって新大陸の文書類をまとめる古文書館となった。コロンブスやマゼランの直筆文書も収められてる。Σ( ̄- ̄*)そりゃすごいっ!
ちなみに神聖ローマ帝国カルロス5世はアルハンブラ宮殿の一部を壊してルネッサンス様式の宮殿を建てたり、メスキータの内部にカテドラル建設を許可したカルロス5世と同一人物で、スペイン王としてはカルロス1世となる。(ー"ー)ややこしい……
カテドラルとアルカサル、そしてインディアス古文書館は“イスラム文明と大航海時代の幕開けとなる2つの歴史を象徴する貴重な建造物群”として1987年にそれぞれ世界遺産に登録されている。
前夜にみきちゃんがガイドブック片手にベッドで予習していたが、それにもしっかりカテドラルは必見だと書かれていた。
私も見た!
わざわざ「!」をつけるには理由がある。必見なのに、世界遺産を巡るツアーなのに、セビリアの世界遺産は内部の見学がツアーに含まれていなかったのだ。┗( ̄□ ̄∥)┛オーマイガッ!
カテドラルは外観ももちろん素晴らしいけど、その内部こそが必見なのにっ。アルカサルなんて城壁しか見てないしっ。それも世界遺産のアルカサルだということすら知らなかったしっ(←それは自業自得……)。インディアス古文書館に至っては存在すら知らなかったっ。/(>_<)\NO~!
世界遺産を巡るツアーだけにしっかり見学できるものと思い込んでいたが、あとでツアー日程表を見てもパンフレットを見ても“入場観光”にはなっておらず“下車観光”となっていた……。
ああ、せめてカテドラルかアルカサルの一方だけでも入りたかったよ~っ!(叫)
「セビリアを見ずしてマラビーヤ(驚く)と言うなかれ」
見たような見ていないようなこの状態では、「マラビーヤ!」とは言えないな。( ー_ー)フッ


『サンタ・クルス街』はイスラム統治下の時代から14世紀末までのユダヤ街で、コルドバのユダヤ人街と同じく白壁の家やバルコニーの花、パティオや狭く入り組んだ路地が特徴である。ユダヤ人街の路地が狭いのは、アンダルシアの強い陽射しを防ぐためだという。それぞれの小路には“生命”や“死”にちなんだ名がつけられ、それらが複雑に結んでいる小さな広場には“水”や“命”、“十字架”や“モスク”などの名がつけられている。画家のムリーリョも、カトリック両王に追放される1492年まで住んでいた。サンタ・クルスと名がついたのは、街の中にある『サンタ・クルス広場(聖十字架の広場)』から来たもの。

サンタ・クルス街花盛りの季節のサンタ・クルス街は、街の散策を始めた最初の路地からして見事な美しさだった。特に説明する場所もないのに何人かの希望に応じてガイドさんに止まってもらい、その場で予定外の撮影大会になったほどだった。
そこからモザイクタイルのベンチが美しい公園へ出、オレンジ色の綺麗な壁が印象的な家の前を通り、細い路地を抜けて小さな広場に出る。その後も家々の玄関やベランダに施されたモザイクタイルや鉢の花、壁に伝う花などが目を楽しませてくれた路地を右へ曲がったり左へ曲がったりしてお土産屋さんに辿り着いた。ちょうど開店したばかりだったようで、店員さんが開けた陶器皿などの商品の掛かった木製の格子を吊るしたりしていた。

土産物店内に入ると温度計や壁掛けに絵皿やティーカップなどの黄色と青が基調の陶器や闘牛士と牛の人形、さらに何度も見かけた牛の看板の置物もあり、闘牛士っぽく衣装を着せかけたアルコールのミニボトルまであった。
お店の奥ではレジではなくトイレに長蛇の列ができていて、私たちも借りられる所ではとりあえず行っておこうかと思っていたがなかなか前進しそうにないため、並ぶのを諦めて小さな店内をちらりと見て回っただけで外に出た。
するとしばらくしてお隣のカフェでトイレを貸してくれることになり、こちらもまだ開店準備中のところをお邪魔して並んだ。が、なんとも怪しげで汚いトイレだったため、みんな大いに苦労することに。(;^_^A
だって「ほんまに女子トイレ?」と疑いたくなる、丸くて小さな汚い便器だったから……。
しかも狭かったっ!
それでも何とか全員がトイレを済ませてお店の前に集まる。
絵になる大木そこからまた小路を通り抜け、花のアーケードの下をくぐったり根が宙に浮いた感じのインパクトのある大木や満開にオレンジの花が咲く庭園を抜けて大通りへと出、そこに待っていたバスに乗り込む。
バスに乗る前、ここまで案内してくれた現地ガイドのSさんと4人で写真を撮ってもらった。おそらく190cm近い身長があるに違いない長い腕を私たちの肩に回し、満面の笑顔で映ってくれたSさん。わりと若そうに見えていたけど、写真を見てみたら案外いい年っぽい。いったい何歳だったんだろう。年齢不詳だなぁ。35歳前後か? ……わからん。


そんなことはさておき(笑)、カテドラルは外観だけ、アルカサルは城壁だけ、サンタ・クルス街は歩いただけと名所はまだ何も見ていない気分でいっぱいのまま次に向かったのは『スペイン広場』。
スペイン広場この『スペイン広場』は、1929年に開催されたイベロ・アメリカ博覧会の会場として建築家アニバル・ゴンザレスの設計により建造された。オルレアン公女マリア・ルイサがサン・テルモ宮殿の一部を市に贈与して造られた市内最大のマリア・ルイサ公園の一角にあり、彫刻されたレンガと絵タイルが用いられ両端に塔の建つ200mの半円形の建物で、それに沿うように池が配置されている。建物の壁には池に面してスペイン各地の地図や歴史がタイルに描かれた58のベンチが並び、池には陶器製の手すりや欄干を持つ4つの橋が架けられていて、それぞれカスティーリャ、アラゴン、レオン、ナバラの4つの王国を表している。この建物は現在、政府関係機関の事務所として使用されているそうだ。
そしてなんと、映画『スターウォーズ エピソード2』のアミダラ王女が統治している惑星ナブーの首都シードとして登場し、ここで撮影が行われたという。( ̄- ̄*)へぇ~

が、私たちが行ったときには何かの祭りかイベントがあったようで、その準備中か片づけ中か石畳の広場にテントが並び、建物を半ば隠しているばかりか池の存在すらわからない有様だった。きっと美しいに違いない風景なのに正面からはろくな写真も撮れず、かといってバスを長く停めていられないということで10分しか時間がなかったため裏へ回り込んでみることもできず、中央の噴水から塔をバックにしてみんなで写真を撮るのが精一杯だった。
急いでバスに戻る際に、現地ガイドのSさんに昨夜ホテルで書いた絵はがきを出してくれないかとお願いする。ポストがあったら入れようと思っていたのだが見つからず、セビリアから出すつもりで書いたのにこのままでは出せないとあせっていたため、笑顔で快く引き受けてくれたSさんにとても感謝して絵はがきを託した。
最初にさらっと“男前”と紹介したSさんだが、添乗員のKさんがSさんとお別れしてから「彼はゲイですね」と言った。それにみんなビックリし、なんでわかったのかと訊ねた人にKさんは「何となくわかりますよね」とわかるようなわからないような答えを返していた。f^_^;) さらにゲイの人は男性には優しいけど女性には冷たいと言ったため、優しかったけどなぁ、と思いつつ「『ケッ! こんなハガキっ( ¬_¬)ノ⌒□ポイッ』って捨てられてたらどうする?」と笑い合った。帰国してから数日後、無事に絵はがきが届く。やっぱり優しい人だった♪(*^-^*)

それにしてもとうとう最後まで、「マラビーヤ!」とは言えない状態のままでセビリアに別れを告げることになってしまった……。
ある意味「マラビーヤ!」って感じ?( ー_ー)フッ



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